映画「his」 限りなく普遍的で、どうでもいい話である

※すべて個人の感想です

 

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映画「his」を、友人にぜひ見てほしいといわれたので見てきました。

 

これは映画「his」を見た直後の私のツイート。こうツイートしたはいいけれど、やっぱり書き残しておきたいことがとめどなく出てきたので記事を書きます。

 

他人の恋愛ってやっぱり他人事でしかなくて(第三者である私にとっては)どうでもいいんだ、という、ある種解放されたようなきもちになれたからそれだけでいい映画だったなって言いたくなるし、それからストーリーとは関係ない点なのですけど、作中季節が冬から春に向かって行くのに合わせて画面の色彩トーンが上がっていくのがやわらかくてやさしくて、私はただただ水で薄めた絵の具を使った水彩画みたいな画面が好きなので、やっぱりこれだけでいい映画だったなって言いたくなります。 

 

続きにもっとぐだぐだ長いこと書いてるのですけど、まあ、要旨としてはこんな感じです。

 

 

 

これは映画を見た後にみんなの感想どんなもんよ~と思って見つけたツイート(勝手に引用してすみません)。
こちらのツイートにもある通り、「his」の感想を書こうとすると、私個人のものすごくプライベートな領域まで踏み込むことになってしまってびっくりした。深淵をのぞくとき……とはちょっと違う気がするけれど、映画や音楽についての感想を自分のことばで書き残すっていうのは、それまでの自分が過ごしてきた環境とか考え方がごろごろとこの身から切り出されるような感覚がありますね。切り出されるというか、薄く削いでいく感じかな。別に痛くはないんだけど、自意識はなんか、こう、うわ~~~ってなる。なるけど、書きたいと思ったので書きます。

 

さて、この映画について感想を書くときにこれを明らかにしないのはフェアではないと感じたので先に言っておくのですが、私はありとあらゆる創作物の中でも、特に、男性同士の恋愛を描いた"BL"というジャンルを愛している、いわゆる腐女子という人間です。
また、私は他人を恋愛的な意味では好きになることができないようで、結果としてだれかの恋愛を「他人事として」「物語として」楽しんでしまう節があることも、ここに記しておきます。
ただ、かといって現実と創作を混同することはぜったいにしないよう気をつけているつもりです。出来てなかったら教えてね……。だからこの映画のカップルや彼らを取り巻く環境がリアルだなんて思わないし、かといって理想だとも思わない。もしかしたらモデルがいるかもしれない、もしかしたら現実が反映されているかもしれない。でもこの映画の中で迅と渚のカップルはフィクション中の同性カップルのひとつの形としてそこにいるだけで、そのうえで私はこの映画に奇妙に心地よさを感じているということをこれから綴ります。

 

私は上に書いたような人間だけど、そのうえで「his」を見てけっこう安心した。
迅と渚カップルを取り巻くひとびとはとかくやさしい。理想郷のようなやさしい世界と言ってしまえばそれまでだけど、でも、とにかく私は「his」を見終わってからずっといい映画だったな、ってぼんやり思っていた。なんなら上映後ちょっとだけ涙ぐんでいた。
あのラストを見たら、空ちゃんが、渚が、迅が、それから玲奈が、この先きっと悩んだり後悔したりしつつ、でも、いわゆるふつうの人生を送るんだろうって春霞のかかった淡い色彩に思わされたので。こんなこと書くとふつうってなんだよって言われそうだけど、私にとって「ふつう」っていうのはごはんがおいしくて、読んでも読んでも積読が減らなくて、大して好きでもないけど昼間に飲むビールはなんか妙においしくて、季節ごとの行事をちゃんとやると意外と楽しいっていう日々です。ふつうだけど大事でしょ。

 

それから、やっぱりどうでもいいんじゃんね、という感覚。投げやりで捨て鉢な「どうでもいい」ではなくて、だれがだれを好きでいようが、なにをしようと構わない、ノンオブマイビジネスだしノンオブユアビジネスだ、という感覚。
だれかを好きだと思ったり、大切にしたいと思ったり、離れがたいと思ったり、そういう強くてなんだかまぶしいような気さえする数々は、普遍的で、けれど私の持ちえる感情ではない。個人の感情は個人のものでしかないから、だれかの感情を他人が持ちえないのは当たり前のことだけれど恋愛ができない私には二重の意味で一生無理なんですよね。
どれだけ近くても、たとえ血を分けた親子でも、姉妹でも、恋人でも、親友でも、100パーセントの理解なんて不可能だ。だから関係の溝を埋めるために言葉を尽くし、時間を共にし、歩み寄り、ふれあい、わかりあおうとする。その努力の過程が、私にとってドラマになる。ドラマだから、いいなあ、とかよかったね、とか、楽しそうだな、とか、時には、しんどいからやめなよ……って思う。でも、結論としてはやっぱりどうでもいいのだ。他人のドラマが私の人生に及ぼす影響は誤差レベル。
責任がない。義務も権利もない。傍観者だから。他人事だから。そういう一番楽ちんで無責任なところから、面白そうな場面場面だけをつまみ食いしている。これは悪癖のひとつなのではないか、と思っている。
でもそんな悪癖をもった人間なりに、たとえば結婚する友人にはずっと幸せでいてほしいと思うしひとの恋バナを聞くのは割と好きだし結婚式のEDムービーでちょっと泣いちゃうし、失恋した友人の愚痴を聞いたり元恋人の悪口を一緒に言う(たいていの場合私は友人の相手のことをよく知らないので友人の言うことをうんうんと全肯定するだけになる)こともする。楽しませてもらっている対価……というとものすごく嫌な感じだけれど……でも、そういうのってあるじゃないですか。私では到底経験しえないことを教えてくれて、楽しませてくれている彼ら彼女らに対しての礼儀というか。
そして、そういう最低限の礼儀の一環としてフラットでありたいと思っている。フラットというのはつまり、できるだけ偏見とかバイアスとか、偏りのないように、中立で誠実であれるように、と。そういう在り方を自分に課しているつもりです。
その極地が、どうでもいい、なのではないか、と。上で言った通り、ノンオブマイビジネスで、ノンオブユアビジネスだ、という感覚。

 

日本は同調圧力が強い国だというひとも、いやいや日本はだれがなにしてても気にしない国でしょというひともいる。どっちも正しいと思うよ、私は。名前も顔も知らない他人のことはどうでもよくて、名前も顔も声も知っているひとのことになると一生懸命になっちゃうんじゃないですかね。日本人に限らず、多くの人間の場合。
この映画を見て今回私がうれしかったのは、緒方さんが顔も名前も知っている迅に対して「どうでもいい」を発動してくれたこと。それから、玲奈の母親とは対照的に、麻雀のおばあちゃんが迅と渚の事情に関してはポーズ含みではあれ、心底どうでもよさそうな扱いをしたうえで、ひととしては「長生きしな」って言ってくれたこと。
緒方さんが迅とふたりで山を歩きながら「だれがだれを好きになろうとそんなのはそいつの勝手」と言った場面で肩の力が抜けたし、通夜振舞いの席で麻雀のおばあちゃん(名前がわからない)が「この年になると男も女も関係ない」「長生きしな」というところでは思わず笑ってしまった。
どうでもいい、って、態度に出して言っていいんだー!? ……そっか。そうだよねえ。

 

「男だけどそんなの関係ない、○○だから好きなんだ」
これは、たぶんBLを読む方にはおなじみのセリフだと思うんですよね。
「男だとか女だとかどうでもいい、○○だから好きなんだ」
個人的にはこっちのほうがより好きで。ついでにいうと、
「○○が好き」
個人的に、圧倒的ナンバーワン回答はこちら。
これは極論ですが、性別、どうでもいいので。
いやよくないのかもしれないけど。恋愛感情が同性にしか向かないひと、異性にしか向かないひと、両性(あるいはあらゆる性)に向くひと、だれにも恋愛感情を抱かないひと、(もっと他にもあるかもしれない)がいる以上、どうでもよくないんですけど。
でもさ!私にとっては、背景、どうでもいいので。だれかがだれかを好きという事実だけが大切なので。さっきBLが好きだと言った口でなにを、と思われるでしょうが、まじでどうでもいいんですよね。どうでもよくていいんだな~って。きょうこうやって文字にしてみてすごくすっきりした。

 

空ちゃんが言う。
「パパが迅くんを好きなのはおかしくないよね?」
おかしくないと思うよ。迅が渚を好き。渚が迅を好き。同性しか好きになれなくても、異性しか好きになれなくても、だれかがだれかを選んだことが、私にはとてもきらきらして見える。だれも選べないのは、たまにちょっと、寂しいので。
ふたりとも悩みはする。でも、互いが互いを好きでいっしょにいること、それでいいんだよという当事者間の肯定と、それをどうでもいい、と放っておく周囲がなんとも居心地よかった。
もちろん、このさきも渚はことあるごとに玲奈や迅、空ちゃんへの罪悪感を覚えることがあるだろう。玲奈も迅も、それぞれに後悔することがあると思う。でも、きれいごとかもしれないけど、だれかを選んだことがある、好きになったことがある、という事実は高出力のエネルギーになるんじゃないかと私は思う。そのエネルギーをくべてこのさきしあわせになるための努力をすることは悪いことではないと。

 

10年位前、いっときBL映画がものすごく流行ったことがあるんですよね。いま舞台で活躍している俳優さんもけっこう出てたりして。
あのころ見ていた映画って、けっこうひりつく作風のものが多かった覚えがある。さっき例に出したような、「男だけどそんなの関係ない、○○だから好きなんだ」系統のセリフ、多用されてたよなあって思い出して、うわ~~~!!!ってなっちゃいました。あのころの私はそのセリフをフラットだと思って見ていたと思うんですよね。あのころは手帳もブログも書いてなかったから、もう記憶すら霞んだ過去なのだけど。
あのころからこれまで、日本でも外国でも、同性愛を扱った映画はいくらもある。けど、私の価値観が「○○が好き」がいいな、になったこととか、「個人が個人を愛する」ということが当たり前に描かれるようになっただけでも、なんというか、全然世界が変わったんだなあって思う。

 

恋愛って、究極的にプライベートな問題だ。
けれどふたりの周りには暮らしがある。食事したり、仕事したり、出掛けたり、遊んだり、そういう暮らしの中では世捨て人でもない限りはだれかしらと関わっていかないといけない。
そういう広がりみたいなものもいくらか理想郷めいていたとはいえ描いてくれたので、だただみんな、それぞれにそれぞれのしあわせをつかんでくれ、と。そう願うような映画でしたね、「his」
結局、ノンオブマイビジネスで、ノンオブユアビジネスなんですよ、他人の心の中のことなんて。それでよくないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

それからこれは完全に蛇足なのだけど、迅の前職の同僚たちの描写に背筋がぞっとした。男性ってああいうとこあるよね。心底苦手。ほんとうにあのシーンだけは無理でした。調停員と渚のシーンも、法廷で玲奈側弁護士が美里さんと迅に質問してるところも、玲奈さんがワーキングマザーとして追い詰められているところも、つらくはあれどだいじょうぶだったのに、あそこだけは自分のトラウマのこともあっておえってなった。変なとこリアルな手触りで心が死ぬかと思いました。